堀尾貞治年譜

1939 (昭和14年)

4月5日 神戸市兵庫区の下町に生まれ、終生住む
太平洋戦争中、一時父の御里鳥取の山村に疎開、父の家は庄屋であった。父は従軍カメラマンとして、戦後巣鴨戦犯拘置所に3ヶ月入所、その後神戸新聞社のカメラマン、子供の躾は非常に厳しかった。三男一女の長男。

1945

神戸市立浜山小学校入学
美術教諭の喜岡徳光との出会いがあり「一生美術をやる」と決心する。喜岡先生の他界まで交流が続いた。
若い頃の写真

1951

神戸市立須佐野中学校入学
叔父堀尾幹雄に絵、書の才能を認められる。叔父は民芸運動に関わり後に大阪民芸協会理事となった。敬愛する叔父との対話、旅行、朝鮮日本民芸の膨大なコレクションに深い影響を受けた。

1955

中学卒業後、家計を支える為に三菱重工業神戸造船所に就職。主に製造部門で定年まで勤める。
大企業の”有難さ”で残業をせずに必ず定時で帰り、休暇は全部取り、通勤時間は自転車で十数分の近さであり(上下ジージャンを着て自転車上で歌をうたったり、ハーモニカを吹きながら通勤)
会社以外の時間はすべて美術に費やした。役職昇進試験の用紙に「エラクなりたくない」と記入し最後まで平社員であった。
造船所の洋画部CPMに属し、写生、デッサンを楽しみ終生具象抽象のへだたりなく絵を描き発表した。

1957 (18歳)

第10回芦屋市展に入選(以後連続出品)。吉原治良と出会う

1960年代 

「電停シリーズ」神戸市電(路面電車)の全停留所を写生した。
電停シリーズ制作風景

1965 (26歳)

第15回具体美術展(グタイピナコテカ 大阪)初出品
1972年具体解散まで連続出品

1966 (27歳)

初個展 信濃橋画廊(大阪) 堀尾の良き理解者であった美術評論家高橋享の企画による。
具体美術協会会員となる

1968 (29歳)

グタイピナコテカ個展
具体展に出品していた木村昭子と結婚(一男一女生まれる)
グタイピナコテカ個展会場

1973 (34歳)

京都北白川美術村で、美術村住人で具体会員の坂本昌也と制作、発表。美術村にはしばしば宿泊し、住人美術家達との交流を楽しんだ。
京都北白川美術村

1975 (36歳)

居酒屋「ぼんくら」(神戸)での作品展示がはじまる
ぼんくら

1979 (40歳)

神戸三宮東門筋のうどん屋の二階を借りていた竹中省己(画家 唵よしみ)から相談を受け東門画廊を開設。
1985年の閉廊まで、独自の路線を貫き、新しい画廊の在り方を提示した。途中、独断、マンネリ、堀尾の会社出向による不在など、挫折、停滞も経験しつつ、数多くの実験的、意欲的な個展、グループ展が行われた。家主の古道具屋「生田ギャラリー」の理解なくしては不可能であったが、階下のうどん屋からはしばしば叱責を受けた。

1980 (41歳)

三菱重工名古屋航空機制作所に出向中、BOX Gallery(名古屋)で個展「同時空間Black Paint」を行い、関西在住の友人に、それぞれの居場所での”ブラックペイント”を依頼。以後「空気」「同時空間」のテーマは続けられた。
1980年代は、職場でのストレス、美術界へのコンプレックス、身体不調などで、しばしば精神不安定となった。粗忽による怪我も多く入院することもあった。
同時空間DM

1982 (43歳)

アートスペース虹(京都)第一回個展。
1985年以降は閉廊する2017年まで、年初に連続個展。

1984 (45歳)

アートスペース虹 熊谷寿美子企画により、楠華殿(京都東山区)の襖絵制作、以後友人親戚宅の襖、壁に多くの書画を描いた。又、自身の展覧会、パフォーマンスをはじめ、大小自他を問わず集会のために垂れ幕を大書するのが常で、依頼でボランティア活動ののぼり、パネル、デモの横断幕反戦集会の看板等、無数の「一回限りの書」を書いた。
楠華殿制作風景

1985 (46歳)

急性白内障の為、左目水晶体摘出手術を行う。
両眼失明の恐れもあった。失明しても可能な制作行為として様々な物体に1日1色絵具を塗ることを始める。「色塗り」は死の前日まで、1日も欠かさず続けられた。
東門画廊の個展で、はじめて「あたりまえのこと」というタイトルを用いる。東門画廊が閉廊し、そのあとを継ぐ形で同じく竹中省己所有の歯科医院階下のうどん屋を改装して六間画廊開設。神戸市長田区のこてこての下町商店街にあった、竹中他界により3年後に閉廊

1986 (47歳)

三菱重工の子会社「リョーイン」に出向。印刷会社であり業務として取得した製本技術が自身の作品、資料などの記録に大いに役立った。
同僚として周治央城と出会う。絵師堀尾、彫師周治、二人で刷る墨木版画は風景にはじまり、大判「妙好人伝」シリーズ150点、震災風景等が次々と制作発表された。
妙好人

1987 (48歳)

神戸国際交流館(神戸ポートアイランド)に画廊ポルティコがオープン。神戸市文化振興財団から運営を委託される。東門画廊と同様に観客の少ないギャラリーで、会期中は作家が会場を自主管理しなければならない場所であったが、広大なスペースを使って、真摯な意欲あふれる展示が続いた。1995年阪神淡路大震災で閉廊。

1989 (50歳)

六間画廊で堀尾貞治作品をみて、ぼんくらを訪れた山下克彦と出会う、以後山下は、ほぼすべての堀尾の展覧会、パフォーマンスをサポートし記録する。1993年から、堀尾宅に毎日郵送された「SADA」とそれに対する堀尾の返信は、堀尾の死まで続いた。
山下さんと

1992 (53歳)

神戸市灘区阪急電車高架下に清水公明がギャラリー2001(2006年からアトリエ2001)をオープン。独自のアートを追求する作家たちの発表の場となる。過激な展示、パフォーマンスも許容する自由な空間で、「ぼんくら」「空気」のメンバーや堀尾にとっても神戸における主要な発表の場であった。
1993年から2000年まで毎年12月に個展。

1995 (56歳)

阪神淡路大震災。自宅は部分損壊で住むことは出来たが、家の中はガレキ状態となった。余震が続き日常生活がうばわれた中、叔父堀尾幹雄から震災風景を描いておくよう言われる。葛藤の中で描きはじめた震災風景画は震災後から現在まで、学校、役所、寺院、美術館、画廊等で展示され続けている。
全壊した居酒屋ぼんくらを松本剛太郎設計で、仲間と木造手作りで再建

ナノ・リウム(山梨)で個展、以降2018年まで山下克彦と毎年個展。
2000年から2009年まで 富士吉田市政50周年記念「『まち』がミュージアム」に現場芸術集団「空気」で参加

1997 (58歳)

「1分打法」を始める。毎朝起床後、アトリエの床に10枚程度の紙を並べ、一枚1分(実際には1分かからなかった)の速さで絵を描く。死の前日まで続く

1998 (59歳)

三菱重工神戸造船所を定年退職。以後すべての時間を美術に充て、年間100余の個展グループ展を行う

2002 (63歳)

芦屋市立美術博物館(兵庫県)で初の美術館での個展、38日間の会期中毎日パフォーマンスを行い、会場の展示はめまぐるしく変わった。
美術館を訪れた原口研治と出会う、以後原口は堀尾の海外の展覧会、パフォーマンスに同行サポートし、現場芸術集団「空気」の事務局長を務めた。

2003 (64歳)

兵庫運河貯木場(神戸市兵庫区)で野外展「空気美術館」開催。堀尾と交流のあったアーティスト達が参加し約一年間作品展示とパフォーマンスを行う、これを契機として現場芸術集団「空気」が誕生した。

2008 (69歳)

神戸市の区画整理のため自宅アトリエを解体する際に空っぽになった建物の内外いたる所にぼんくらメンバーが黒の点を書き住居は大きいオブジェとなった。
自宅点々解体前

2011 (72歳)

ベルギーのアートディレクター、コレクターのアクセル・ヴェルヴォルトのギャラリー(アントワープ)で個展、作品集刊行。以後アクセル企画の個展、パフォーマンスがアントワープ、ブリュッセル、ベネチア、ニューヨーク、香港で行われた。

2016 (77歳)

喜多ギャラリー(奈良額田部)で1000枚のパネル作品「千Go千点物語」制作
2016年頃よりメニエール病発症、服薬を続けるが治療に必須の安静をとることが出来ず、医師に警告されながらも走り続けた
喜多ギャラリー製作風景

2018 (79歳)

病状が次第に悪化し、難聴、耳鳴り、不眠に苦しんで生涯4度目の鬱状態となる。鬱による突発性記憶障害に自ら大きい衝撃を受ける。
11月3日自宅近くにあり、少年時代の遊び場で1970年代から作品展示、パフォーマンスを数多く行った兵庫運河貯木場跡で自死。