堀尾貞治 HORIO SADAHARU
追悼 堀尾貞治
「あたりまえ」の死
山本淳夫
葬儀からひと月が過ぎ、堀尾さんについて、ようやく落ち着いて考えられるようになった。堀尾さんは ポジティブの権化のようなアーティストで、常軌を逸した頻度で発表活動を行う、まさに無窮の人だった。2011年にベルギーで出版された作品集に文章を寄せた際には、彼がいよいよ老いに直面し、身体の自由がきかなくなったとき、はたしてどのような表現を見せるのかむしろ興味深い、と書いたほどだ。
ところが実際の幕切れは、あまりにも想定とかけ離れていた。死因は、なんと自殺だったのだ。あれだけ風呂敷を広げておいて、それはないだろう。責任をとって、然るべき落とし前をつけてもらいたい。
一報を聞いた瞬間、虚を突かれたショックと、何か裏切られたような感覚が頭のなかをぐるぐる駆け巡った。
とはいえ、人の苦しみは他人には容易にわからないし、安易に推し量るべきでもない。通夜の席で昭子夫人からうかがったところでは、死の直前、堀尾さんは深刻な鬱と、それに起因する記憶障害に悩まされていたそうだ。鬱については、今回が生涯で4度目だったらしい。
最初の3回はいずれも昭和のことで、筆者が堀尾さんと出会ったのは平成以降だから、元気な姿しか知らないのである。
とりわけ記憶に残るのは、2002年に芦屋市立美術博物館で担当した彼の個展である。38日間の会期中、毎日即興でパフォーマンスを行うというもので、いま思えば2000年代以降の快進撃の端緒となる展覧会だった。
彼のすごいところは、経済や権威主義などにまつわる雑音を徹底的に排除し、純粋に美術の核心部分だけを問題にし続けたことだ。綺麗事を口で唱えるだけならともかく、「本当に」実践し続ける信念、徹底した姿勢は他の追随を許さなかった。自らを厳しく律するいっぽう、情に厚い側面もあり、つねに庶民や弱者の視点に立っていた。晩年は海外での発表も増え、「具体」の再ブレイクとも連動して作品の価格もそれなりに高騰し、周囲の雑音も増えたことだろう。
以前ほどは頻繁に彼の活動を追えなくなったが、しかしパフォーマンスを見るたびに、その姿勢にまったくブレがないのに感銘したものだ。そして、打ち上げで彼や仲間たちと酒を酌み交わすと、何か我が家に帰ったような幸福感に包まれるのだった。美術家と学芸員という以前の、人間同士の関係性が居心地良かった。
通夜と葬儀が営まれた2日間は、秋晴れの清々しい青空が広がっていた。筆者にとって、堀尾さんのシンボルカラーは「青」である。2002年の芦屋での個展はまさに「真夏の太陽にいどむ」を地でいく感じで、抜けるような青空と、堀尾さんが多用したブルーシートの印象が強かったせいだろう。
それはまた、彼が生涯追求した「空気」の問題(=あたりまえのこと、見えないものを可視化する行為)とも響き合ってい
る。
かねがね筆者は、「具体」の初期作品には、言語によって意味づけされる以前の世界との、思いがけない出会いを求める姿勢があると考えてきた。村上三郎の「紙破り」(1955〜)や白髪一雄の「泥にいどむ」(1955)は、自己と世界とが不可分であることを確認したい衝動の表れなのではないかと。
死の直前の堀尾さんは、恐らく正常な判断力を欠いていたし、その最期を単純に美化する気にはなれない。
そのいっぽうで、彼は「本当に」空気と一体になろうとしたのではないかと、ついそう考えてしまうのだ。徹頭徹尾、彼はあまりにも純粋で、誤魔化すことのできない人だった。
やまもと・あつお(横尾忠則現代美術館 学芸課長)
初出 美術手帖 2019年2月号 (2019年01月07日発売)